「日本盲人キリスト教伝道協議会」のテープ「おとずれ」に山浦玄嗣さんが出演
3月15日に日本盲人キリスト教伝道協議会が企画発行するテープ「おとずれ」の取材・録音のため、スタッフ4名が大船渡を訪れ、山浦さんのご自宅の隣にある山浦医院の待合室で録音しました。「おとずれ」はカセットテープにして盲人の購読者の方々に定期的に送られているようですが、2009年 4月号(No.228)はホームページ聴くことができます。 http://www2.nc-tech.com/arufupapa/
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
山浦玄嗣講演ビデオテープ「走れ、イエス!」を販売開始いたしました
山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)講演ビデオテープ「走れ、イエス!」(収録時間78分)
~ケセン語訳聖書1万部達成記念~

2002年11月に「ケセン語訳新約聖書:マタイによる福音書」を出版以来、「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の全四巻を発行し、
2004年4月にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に直接謁見。訳者により直接献呈されたこのケセン語訳聖書は、今日本の宗教史・
文化史に歴史的な足跡を刻み続けています。
山浦さんの仕事に対する高い評価は、NHK教育テレビ・朝日新聞・読売新聞・
毎日新聞など主要なマスコミに大きく取り上げられたのを始めとして、池澤夏樹氏・柳田邦男氏や養老孟司氏など、
現代日本を代表するオピニオンリーダーたちにより取り上げられ強い共感を得ていることからもよくわかります。
「ケセン語訳聖書」はなぜこれほどに注目され全国に売れ続けているのでしょうか。
これはその秘密を余すところなく収録した山浦玄嗣さんの講演ビデオの決定版です。
<収録内容>
・気仙郡で唯一の「ヤソ」
・まるで外国語のような当時の聖書
・おらほの言葉で聖書をつくろう!
・おらほの言葉には文字がない!
・25年掛けて手に入れたケセン語の“ペン”
──────────────────
ケセン語聖歌「谷川の水ば探(た)ね探(た)ね」
(ケセン語聖歌の収録風景を写真で紹介しています)
──────────────────
・直面した難問の数々
・ギリシア語原典からの翻訳を決意
───────────────────
ケセン語訳聖書の朗読
(ルカ15章7節~「竈(かま)返し息子の喩(たと)え」)
───────────────────
・理解してもらうための様々な工夫
・漢語は出来るだけ使わない
・「天国」も「愛」もないケセン語訳聖書
・イエスにつまずく?
・愛せない敵
・初めに神様の思いが在った
───────────────────
ケセン語訳聖書の朗読(ヨハネ1章1節~12節)
───────────────────
・ケセン語訳聖書を教皇様に献呈
・ケセン語訳聖書は「世間語訳聖書」
───────────────────
ケセン語聖歌「主の祈り」
(ケセン遣欧使節団のバチカン訪問風景を写真で紹介)
───────────────────
ご注文はイー・ピックス出版からどうぞ
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
山浦さんの山形講演
山浦玄嗣さんの講演会が山形市内で行われます。
山形県での講演会は、2002年11月に鶴岡で行われて以来何度か行われていますが、山形市内で「ケセン語聖書」 をテーマにお話しするのは今回が初めてです。
お近くの方はぜひお出かけください。
●日時/2006年9月17日(日)13時~15時(開場は12時30分から)
●場所/日本キリスト教団山形六日町教会(山形市旅籠町3-3-34 電話023-622-6630)
●入場料/500円
●主催/山浦玄嗣先生講演会実行委員会
※詳細については山形六日町教会にお問い合せください。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
南部泰孝牧師の経歴

南部泰孝(なんぶやすたか)牧師は1934年、東京品川に生まれ、少年時代より慶應義塾大学に学び、東京神学大学大学院を経て、 後にニューヨーク・ユニオン神学校大学院(学位取得)とコロンビア大学院に遊び、 帰国後日本基督教団の牧師として教会および教会関係学校で教えて現在に至る。
著訳書に聖書学(含オリエント学)関係書(考古学・地理学・歴史学等)、他に大事(辞)典(編集・執筆)、随筆、推理小説などがある。
東京品川在住、東京教区在住
以上「日本人とキリスト教ーキリスト教と日本人」の著者略歴から引用いたしました。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
「わたしはこの本を四度読んだ。」
日本基督教団牧師でキリスト教図書伝道協会代表の南部泰孝牧師の新著「日本人とキリスト教ーキリスト教と日本人」(イー・ ピックス出版 B6判 224頁 ¥2,000)がこの度出版され、日キ販を通じて全国のキリスト教書店で販売されています。 (お求めはhttp://www.epix.co.jp/からどうぞ)

この本にはケセン語訳聖書の訳者・山浦玄嗣さんが「わたしはこの本を四度読んだ。一度は通読、二度は精読、 三度目は始めからしまいまで全文を声を出して朗読した。声が嗄れた。そして四度目は頭脳に叩き込んだ。断言する。 この本にはそれだけの価値と魅力がある。」と力強く推薦文を書いています。
その全文をご紹介いたします。
キリスト教思想史の偉大な総説
医学博士 山浦玄嗣
一冊の本を四度読むということは尋常のことではない。ましてやそれが自分の専門とはまるで関わりのない分野のものであるなら、
なおさらのことである。わたしのような理科系論文を読み慣れた人間にとっては、そもそも文体からして見慣れない。
そこには自分にとってほとんど異質と感じられるような思考が展開され、なじみのない、従って意味も定かでない専門術語が次々と登場する。
これを辞書を引きながら読む。
その辞書も単なる国語辞典では間に合わない。哲学辞典だったり、聖書学辞典だったり、神学辞典だったりする。
それでもわたしはこの本を四度読んだ。一度は通読、二度は精読、三度目は始めからしまいまで全文を声に出して朗読した。声が嗄れた。
そして四度目は頭脳に叩き込んだ。断言する。この本にはそれだけの価値と魅力がある。
著者は旧南部藩(盛岡藩)の殿様の御子孫でいらっしゃる。岩手県の大半と青森県の半分がその領地だった。
だから岩手県人であるわたしにも少しは関わりがある。ただし、わたしの住む気仙は伊達藩(仙台藩)なので、
南部様とはしばしば敵同士であった。われわれの祖先は遠野境の砂金を狙ってしばしば南部領を侵略し、南部家に多大な御迷惑をかけている。
もっとも南部藩では悪政が続き、南部の窮民が大挙して気仙
に越境し、われわれが彼らを温かく遇して差し上げたこともある。歴史にはいろいろな因縁が付き物だ。
南部藩も伊達藩もかつて吉利支丹を弾圧して多くの信徒を殺したお家柄である。その家から、キリスト教の牧師が出たというのも、 まことに不思議な因縁だ。南部牧師はプロテスタント。一方で吉利支丹弾圧の総本家であった徳川家は、 吉利支丹伴天連たるカトリックの神父を五人も輩出した。この歴史の皮肉を何と言おうか。神様の愛の復讐は救いの恵みである。 多くのキリスト教徒を殺しまくったタルソのサウロが偉大な使徒パウロとして羽ばたいたように、 神様に対して血みどろの戦いを挑んだ南部家からも一人の偉大な指導者が現れた。神様は実に味なことをなさるものである。
この本は、大きくわけて三つの部分から成り立っている。第一は「日本人とキリスト教――キリスト教と日本人」で、 この題名が書名をも兼ねている。第二は「旧新約聖書神学私論」、そして第三がコリント前書十三章についての考察「愛の賛歌の対話論的釈義」 である。
人間を超える力ある存在をわれわれは神と考えて、さまざまの宗教を発達させてきた。
その神は始めは森羅万象の中に宿る神々であり、宇宙の内部に、宇宙の一部として存在する神であった。これが多神教の世界であり、
あの精緻な哲学思想を発達させたギリシャ思想も仏教も所詮は宇宙に内在する神あるいは真理を見る見方である。これに対して、
ヘブライの思想は宇宙を創造した唯一の超越神を仰ぐ。この神は宇宙の外にあってこれを超越している。
イスラム教やキリスト教はこの流れに生じた。人類思想
の大きな流れを、著者はこの二点によって分類し考察する。
また、宗教哲学を考察して、人間がいろいろと観念をいじくり回して作り上げた観念論の宗教思想と、 歴史的体験を神様の啓示としてとらえて伝承するユダヤ教のあり方との違いを論じ、 そこに啓示宗教というものの持つ特質を鮮明に描き出している。 またそれらが互いに影響して巨大な混淆宗教が発達してゆく過程をキリスト教の歴史の中に観察し、 キリスト教の歴史は混淆と純化との戦いの歴史でもあると喝破している。
第一部において、著者はまず日本人の文化的な個性について考察し、 これがキリスト教と出会ったときの衝撃と反応とその受容の特質とを観察記述し、日本人とキリスト教との関係論を導き出している。 さらに著者は、ここから人類全体に及ぶ宗教的自覚の発展を壮大な筆致で描き出す。
第二部は、第一部を補強するもう一つの雄大な宗教論である。その宗教論を旧約聖書・新約聖書の全体像から説き起こし、 キリスト教二千年の思想史を概説して見事な論を打ち立てている。この巨視的な視座は「三日月の丸くなるまで南部領」 と謳われた広大な領地を見渡して来た血筋と関係があるのかもしれない。個を知り尽くし、個の集合体を概観して互いの置かれるべき位置を定め、 それらの上に立って全体の行く手を確実に指し示すという営みが、該博な知識の上に組み立てられている。
第三部は長さとしては短いのに、含蓄の多い釈義だ。小さいけれども堅固で美しい不来方のお城のようだ。聖パウロの数多い書簡の中で、 ここは特にも変わった文章として知られていて、それが一つの謎と感じられてきた。それを著者は丁寧に解説して、 キリスト教の本質に関わる多くの示唆を読者に与える。
わたしはもはや語るまい。映画を見る前に粗筋などをべらべら喋るのは愚の骨頂と言うものだ。ただこのことは申し上げたい。この本は、
本としては決して大きな本ではない。しかし、その内容は実に百科事典に相当する。わずか数行の記述の奥に莫大な知識の集積が輝いている。
それらがただ羅列されているだけのものなら、それは単なる博覧強記の見せびらかしに過ぎない。ところがそうではない。
それらが互いに精緻に噛み合わされ、城の石垣を見るようだ。単純で骨太の体系にまとめられて、数千年にわたる人類の思想史を概説している。
この本のもっとも偉大な点は、こうした壮大な総説の行く手に、
キリスト教が今後の人類史においていかなる使命を持っているかということを明確に指し示していることにある。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


最近のコメント